民政府布令第109号「土地収用令」
1953年3月23日発布
地主との賃貸借契約が不調に終わった場合には、強制的に使用権原を取得することができるほか、緊急の場合には、使用権原取得前にも立退き命令を発することができるという内容。
すなわち、米軍の軍用地使用については、原則的には契約によるものとするが、それが不成功に終わったときは、あらかじめ地主に対し収用の告知を行ない、地主が拒否した場合にも、米軍は一方的に収用宣告書を発することによって、その使用権原を確保することができた。この布令は新規接収のみに適用された。したがって、既接収地は、依然として一方的な不法使用が続けられた。
布令第109号による最初の収用通告は、4月10日には那覇市銘苅、安謝、天久3区にわたる地域に発令(翌11日に武装兵とブルドーザーを投入して約15万坪収用)。8月13日には読谷村渡具知などに発令(約30万坪)。11月26日には小禄村具志に発令(12月5日に武装兵が出動し、約2.4万坪収用)された。具志は戦前84町歩(約25万坪)有していたが、すでに76町歩(約22.8万坪)は軍用地に接収されていた。
1953年7月15日には伊江村真謝、西崎に発令(翌年6月に住民を立ち退かせる。8月には射撃場の拡張を通告し、1955年3月11日に武装兵によって収用。後に農民たちは乞食姿で全島行脚を行なう)。1955年3月11日には宜野湾市伊佐浜に発令(翌12日に座り込み住民が強制退去。約13万坪収用)。
収容地域は、武装兵の銃剣に守られたブルドーザーによって敷き均された。住民からの激しい抗議の声がわき起こり、立法院においても5月5日には同布令の廃止を決議し、民政長官に訴えた。副長官からの回答は、自由を守るための基地は必要であるとの紋切り型であった。後の「島ぐるみ闘争」は、直接的にはプライス勧告による一括払いなどが発端となったが、その根底にはこのような強制収用に対する住民の不満がうっ積していた。